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事故による怪我、つまり外傷対応を中心に考えられてきた日本の救急隊だが、昭和50年頃になると「急病対応」が出場の大半を占めるようになっていた。急病対応が増えれば増えるほど、救急隊員たちを苦しめる現実もあった。
発端は昭和32年10月5日に東京で発生したある事件だった。前日、酒に酔い暴れていたところを逮捕されていた男性が警察署で倒れた。駆けつけた救急隊はカンフル注射(血管運動中枢を刺激して血圧を高め、呼吸中枢を刺激して呼吸を増大させる)を行い人工呼吸を実施、病院へ搬送した。当時の救急車には注射器と強心剤が積載され、心不全などに対してはまずカンフル注射を行い、人工呼吸を実施するという活動が行われていた。男性は病院収容後に死亡し、警察官の暴行が原因ではないかと法廷の場で争われることになった。しかし、法廷では「救急隊員のカンフル注射」も争点となってしまった。問題となったのは医師法第17条だった。
─医師法第17条「医師でなければ、医業をなしてはならない。」
この法律は戦後蔓延したいわゆる“闇医者”を規制したもので、医師でない者が金銭目的で医業を行うことを禁止した法律である。救急隊員は消防吏員であり医師ではない。第17条に抵触してしまうのだ。一連の話が報道されると世論が騒ぎ、国会でも論議されることとなる。最終的には男性の死と注射に因果関係がないことが認定され、救命のための緊急避難措置としてやむを得ない場合にカンフル注射などを行うことは“反覆継続の意思をもって行う医業”ではなく、医師法第17条にいう“医業”とは解されないという解釈が示された。だが、医師法違反に問われるかもしれない行為を職員に行なわせるわけにもいかず、昭和40年代前半になると各地の救急車から注射器が消えていった。
過敏なまでに「非医療行為」を徹底するスタンスはここに生まれた。救急隊員たちは目の前で消えかける命の炎を手をこまねいて見ているしかなかった。できることはただ迅速に病院へ搬送するだけ。悔しさから、隊員たちは自らを「運び屋」と呼ぶようになっていた。
法律の壁と傷病者の期待に板ばさみとなりながらも、年々増加する救急要請にただひたすらにこたえる救急隊。そんなやるせない時代が永く続いていた昭和53年7月、東京消防庁では定期人事異動により新しい救急担当課長が着任した。武井勝徳氏(当
時44歳)。後に日本の救急体制を大きく変える男だった。「それまで消防畑だったのがいきなり救急ですから、最初は不満でしたよ。」と、武井氏は当時の心境を振り返る。火災調査のスペシャリストとして数々の真実を灰の中から探り出し、様々な功績
を残した武井氏にとって、今までと全く異なる分野である救急への異動は納得いかなかった。しかし「与えられた仕事は120%やってやる」という気質は、新境地に移っても消えなかった。
着任から約一ヶ月が過ぎたとき、武井氏の運命を決定付ける事件が起こった。休日を利用して家族と出かけた千葉の海水浴場で、当時中学生だった長女が高波により岩に叩きつけられ負傷。口元から大量出血してしまう。駆けつけた地元救急隊により病院へ向かった。有効な手当てが行われることもなく、付き添う武井氏の目の前で娘の出血は止まる気配を見せなかった。…これでは命を救うべく存在する救急隊ではないじゃないか─。「出血を止めることはできないのですか!?」思わず口にした叫びに、隊員は静かに答えた。「救急隊に医療行為はできません。急いで病院へ向かいます…」病院での処置の末、長女は事なきを得た。
救急の世界に入って間もなく“救急隊の現実”を身をもって体験してしまった武井氏は思った。
消防隊なら炎の中に飛び込む。しかし、救急隊は法律の壁によりその一歩を踏み出すことすら許されていない─。
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